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富士山人が考える「強力映画」案!

富士山測候所勤務も経験した新田次郎氏の著書「強力伝」でも紹介されているように富士山には伝説的な強力が多く存在しておりました。しかしながら、富士山人が映画化できるのならと、ぜひ推薦したいと感じているのは井ノ部康之著、「雪炎 富士山最後の強力伝」(株式会社山と渓谷社)に登場する並木宗二郎さんという強力です。

肉体的にも精神的にも辛い強力という仕事。登山の専門家でもない男が幾多の困難を乗り越え生き抜く様。これを知らずして富士山へ登れるか?日々の天気予報を支えた男の物語。ぜひ映画にして下さい。

 

(「雪炎 富士山最後の強力伝」あらすじ)

1994年、並木宗二郎は21年間勤めた強力を引退した。約30`の重荷を背負い、冬期富士登山を400回以上行なった超人的な強力。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。

元来東京生まれで理髪店に勤めたいた並木は富士山に特別な思い入れもなかったが、転勤を繰り返していくうち、誘われるように富士山に近づき静岡県小山町須走に落ち着く。夏の間だけ理髪店より収入の良い富士山の山小屋のアルバイトに誘われ、そこでのちの妻となる景子と知り合う。数年後、景子と結婚した並木は長女 裕子 長男 崇を授かり、貧しいながらもいつか独立して自分の理髪店を持つという夢を持ちながら幸せな生活を送っていた。しかし、そんな幸せは長く続かなかった。

長女 裕子が3歳になる前、目に異常が現れる。裕子の目は網膜細胞腫という目の癌に侵されれおり両眼球摘出という残酷な告知がなされた。全盲となってしまった裕子の入院生活は2年半にも渡り、妻 景子は泊まり込みで看病にあたった。幼児の崇は並木が面倒をみていた。病院と家との二重生活、しかも幼子の面倒をみなければならない並木は欠勤が増え経済的にも破綻寸前であった。生活保護をも受けたが、打開策としてたどり着いたのが強力という仕事だった。裕子は5歳になり退院し、盲学校の寮に入った。妻 景子も家庭に戻ったが、長い看病疲れと精神的重圧でまいっており共働きは無理だった。冬の富士山を未経験な並木は迷いも不安もあったが、限られた選択肢の中で並木は強力となることを決意する。

しばらくして並木家に深刻な問題が問題が起こった。景子が妊娠したのである。経済的にぎりぎりの状態であり悩んだが、景子の意思を尊重して生むことに決めた。 俊次と名づけた元気な男の子が生まれた。しかし、涙まで見せて欲しがった子供だったのに、次男の俊次を生んでから、景子はがくんと元気を無くし、精神的不安定が目立つようになった。ついにうつ病の診断を受けた景子は入院することになった。次男俊次が2歳4ケ月でおしめも満足にとれていない時だった。子供の頃から我慢強く、めったに弱音など吐いたことのない並木だが、さすがにこの時は耐え切れず、大きな溜息を漏らし、打ちのめされていた。幼い3人の子供の面倒をみながらの強力生活、心細い思いで留守番をしている子供を考えると、少しでも早く荷をおろし、一目散に山を下りたい…並木はいつもそんな思いで一杯だった。そんな気持ちからか、並木は無鉄砲にもビニール袋を尻に敷いて富士山を滑りおりるようなこともした。

景子の入院が10ケ月を過ぎようとしていた頃、景子は突然、一人で退院してきた。並木は本当に完治したのか半信半疑だったが、景子が戻ってくれれば助かる。心の隅に疑念を抱きながらも、並木は景子の言葉を信じることにした。後からわかったことだが、景子が並木の名前の退院願いと退院承諾書を勝手につくり、医者を強引に説得しての退院だった。

景子の退院から十日近くたった日、並木は久しぶりに一家そろって山中湖に出かけ、子供たちとスノーボートで遊び楽しい一日を過ごした。しかし、その帰り道、景子は裕子に、「もうお母さんがいなくても大丈夫だね?」と短い会話を交わしていた。その夜――――。翌日仕事がないのでいつもより深酒をした並木は昼間の疲れもあってテレビをつけたままコタツに足を突っ込んで寝てしまった。咽喉の渇きを覚えて目が覚めた並木は誰かの呻き声のようなものを耳にした。景子の部屋を覗くと、流れ出た真っ赤な血の中で景子が倒れていた。景子の身体にはためらい傷も含め、いくつもの切り傷があった。景子は病院に運ばれる途中、出血多量で息を引き取ってしまった。

景子を失った並木は、呆然とした昼と荒れすさんだ夜を送った。妻の心の空洞を埋めてやれなかった不甲斐なさが並木を苦しめた。妻の自殺、目の不自由な娘の存在、息子たちの世話、繁雑な家事、苦しい家計、きつい仕事、それら自分が直面している現実、そして、これから自分が引き受けていかねばならない諸々の面倒。並木は酒に溺れていった。そんな状況でも測候所に荷上げのある日は仕方なく出かけて行った。呆然とした心境の並木の前にも、富士のきびしい自然は容赦なく立ちはだかった。捨て鉢な気持ちが頭をもたげることもあり、危険な下りで蛮勇としか言いようのない滑走をくり返した。

そんな折りも折り、景子の両親から幼くて足でまといになる俊次だけでも預かろうという申し出があった。並木はその好意を喜んで受け入れることにした。絶望的な現状を打開する最上の策に思えた。しかし、子供たちの仲の良さを見ていると言い出す踏ん切りがつかないでいた。言い出す決心をして連れ出した浅間神社で、並木は子供たちの強い絆を見せ付けられた。この絆が並木を立ち直らせる大きな役割を果した。一方、強力としての並木に衝撃を与え、再び仕事への緊張感を取り戻させたのは1980年8月14日に起きた落石による大惨事だった。富士吉田口の小屋付近でブルトーザーを運転していた並木はこの大惨事を目撃したのだった。

富士山の自然の脅威を思い知らされた並木はより慎重でなければならないと自らに言い聞かせ強力仕事に邁進した。立ち直った並木はそれ以後も何百回という登山を繰り返す。キツネをはじめてとするさまざまな動物との出会いなど、心のなごむ思い出もあるが、そのほとんどが富士山の厳しい自然との戦いであった。

1982年1月、並木の強力生活は十年目。いつも通り測候所への荷上げに向かった並木は何人かの登山者を見かけた。「物好きなやつもいるもんだ。仕事でもないのに、こんなきつい冬山によく登る気になるよなあ…」並木の本音だった。下山途中、霧のような薄い雲が出はじめ、視界が悪くなってきた。視界はどんどん悪くなり3m先も見えない状況になっていた。太郎坊まであと少しという地点まで下りた並木は人の気配を感じ近づいていった。その気配は血だらけで横たわっていたの男性だった。危険を承知で雪の上を尻でおりた並木は救助を求めた。頭を二十二針縫う重傷だったが、並木の活躍により一命は取りとめた。1998年には遺体も発見した。須走口七合目付近でブルドーザー用の道開けをやっていたとき、うつ伏せになって倒れている若い男の遺体がみえた。その二月に富士山で行方不明になった十八歳の高校三年生だった。「山で死ねたら本望だ…なんていう山男の言葉は嘘だ。」並木は嘆き悲しむ両親の姿を見て、つくづくそう思った。「嘘でないと言うなら、山男の傲慢だ。どんなことがあっても、山で死んではいけない。自分のためにも、残される者たちのためにも、山で死んではいけない。」これは並木の一貫した信念だった。

1993年、並木が43歳の時、比較的安全な登りで、30kgの荷を背負って突風に吹き飛ばされた。正面から風のかたまりがぶつかり、並木の体をさらった。風に倒され、雪面をいっきに滑った。荷物を背負ったままの重い体なのでぐんぐん加速していった。並木の体はあちこちに激しくぶつかり、その度に激痛に襲われた。「…死ぬ」と思った瞬間、雪と氷がはりついた岩に激突した。その場で体が跳ね、回転した。500m滑落した並木の体はそこで止まった。胸のあたりが刺すように痛み、身体のあちこちが疼いた。「死ななかった…」。頭をやられなかったのが幸いだった。運が良かった。左右の肋骨を2本づつ、合計4本を折る重傷だった。その時一緒に登った若い相棒は「富士山はヒマラヤより恐い」という言葉を残し、その日かぎりでアルバイトを辞めてしまった。

1994年4月25日、並木はいつもどおり太郎坊から五合目まで雪上車で運ばれ、そこからは徒歩で頂上を目指していた。長かった富士山の冬もようやく終わり、あちこちに春の気配が漂いはじめている。この日は並木にとって特別な日だった。正式に引退を表明したわけではないが、自分の心の中では、今日が強力生活最後の日と決めていた。並木は最後になるであろう雪の道を1歩1歩踏みしめるように登って行った。「自分としては苦しいことや、つらいことの連続だったような気がするが、俺の仕事は少しは役に立ったんだろうか?…考えてみれば、俺はただ、重い荷を背負って危険な山道を往復しただけだからな」。並木は自嘲気味にそう考えた。だが、すぐにそれを打ち消した。「いや、そこまで卑屈になることはないか。強力は測候所の生命線だ、と言ってくれた人もいたからな。俺が運んだ荷物が、測候所の仕事の仕事に役立ったなら本望だ。」並木は開放感を感じていた。ついでだから、胸のポケットから煙草を出して一服つけた。これも珍しいことだ。煙草は好きだが、登山の途中、山小屋での休憩時以外に吸ったことはない。並木は一本のマイルドセブンをゆっくり味わった。「なにしろ、俺の仕事場は日本一の富士山だからな。…おまけに、この仕事のおかげで子供たちを社会に出すことができたんだ。」裕子は24歳、崇は22歳、そして俊次は18歳。息子2人の身長は並木を超えた。俊次も建設資材会社のセールスマンとして働きはじめた。俊次の背広を買ってやった時、並木は子育てが終わったことを実感した。「…恵子が生きていればなあ。一人前になった子供たちの姿を見せてやりたいよ。これからが楽しみだというのに…」。

遠くから眺めているだけではその変化に気付かないが、並木のように富士山と身近に接している者の目には富士山は年々、疲れ、衰えていくように見える。緑の勢いが衰え、山肌を彩る草花が少なくなった。山に住む動物の数が減り、イノシシ、キツネ、ウサギなど、かつて見られた愛敬者たちの姿がめったに見られなくなった。ゴミが増え、山が汚れた。そして並木の心を重くするのは登山道が荒れたことだ。自分に責任があることを並木は自覚している。ブルトーザーの運行がどれほど登山道を傷つけたことか…それを考えると自分の責任を痛感する。「ごめんよ、富士山。仕事とはいえ、俺もブルトーザーで、ずいぶんおまえの面に傷をつけたよな。そうしないと、俺も子供たちも生きていけなかった。でも、ほんと、悪かったな。許してくれ」。これが最後だと思おうと、並木はどうしても感傷的になってしまうのだった。並木は気を取り直して最後の山頂へ向かった。